2015年8月27日木曜日

宮古パラダイス

何年ぶりの更新だろうか。

全く以てデジタルから等の来出したのは、目が悪くなって、
モニターを観た後に、外の風景がかすみ出してからだろうな。

でもこのページの事は気になっていたけど、
さてどこのなんだったのか。
本気で忘れていた。




3年目の宮古島。
ようやく動き出したぞ宮古島。
まるで大きなウミガメの様に、
僕の3年は、この亀さんにはワンシーズンだったみたい。
なにげに分かる。

太陽暦の世界観
旧暦の世界観
そして、もっと大きな様々が持つ暦。
近く発表される論文では日本の降雨量は400年のサイクルらしいが
この400と云うもの字体を同感じるかで、ただ一つのサイクルと観る事も出来る。
もちろん400年と云うゲージをつけての上で結構。


宮古パラダイス、
本日与那覇のヘドロを採取し、動画で微生物分解クリーナーで綺麗になるかをテストする。
朝から菩提に「一緒にお手伝いをしてもらいたい」と伝えた。
最近は彼との間も、今まで以上に神経を使う関係となった。

でも可愛い息子である。ちょっとガイドしすぎたなーーと最近思って見守るだけにしてる。

2013年9月2日月曜日

生き物

魚だけの世界で見ても、小魚は大きな魚に食べられる。
動物も、アライグマは猫を食べたりする。
人も人の命を食べて生きてる。
これが正常なのかもしれない。

2013年6月21日金曜日

束縛の生まれ

花も何もない裸の土。
安らぎを緑が与えてくれると、
一粒の種を巻く。

小さな小さな芽を出した。
我が手と我が心から生まれた新しき家族。
水をやり、大きく育てと心を注ぐ。

花を付け、毎日飽きずに見とれるうちに時間は過ぎ
やがてタネをつけ、株が増えあたり一面が夢の中。

そしてそこから離れることが出来なくなってゆく。

2012年11月21日水曜日

道具は身体の一部と言う事例




新しい僕の身体。
ここ数年毎年進化している。
誰にでも扱いやすい贈具達と云うよりは、
僕の身体と言う方が適切な気がする。
昨年のバルーンもそうだが
寒さや水温,その場所の風速等が
自分の身体の一部となって行くと
これらの道具が実に使いやすいものに感じて行く。
今まで以上に動きやすくなる為に。

2012年9月11日火曜日

内圧そして名前

黒澤明の「椿三十朗」の最後のシーンで、
切られた相手の血しぶきが、映画のシーンでは初めての「飛び散る血飛沫」だった。
これ以降、決闘やら戦いのシーには「血しぶき」が頻繁に登場してくる。


僕の身体を駆け巡るこの血液の、動脈にかかる内圧と静脈にかかる内圧
送り出し、そして吸い込まれる。
これが1サイクルで行きてる限り続く。

そして、この肉体はその爆発的なPowerを、まるで感じさせずに柔らかく肌で包んでいる。

小さな羽毛の様に柔らかな肉体の赤ん坊。
どこを触れても、そんな内圧なんか感じさせない。
切りどころが悪ければ,吹き出す血しぶき。
そんな猛烈なPowerなんか、抱き上げた時には
微塵も二の腕に伝えて来ないこの肉体。

パンパンに張りつめていてくれたなら、
僕らは何を感じるんだろう。

人を動かす「衝動」
そこには、とんでもない「内圧」が仕込まれてんだろうな。


5人目の娘よ今日は。
君の名前は,何がいいかな?

2012年8月9日木曜日

島の人

僕らは大きな空間で生きてます。
その端には海がそこまでも広がる場所が有り、
そして、その途中には空の雲にまでかかる様な山が有るんです。
過ぎ行くスピードを,どんどん遅くして行くと、
目には色々な物が入りだします。
そして、目が慣れだしたら、今度はそこに生きている動物や
植栽の違いまで見えて来るはずです。

自分の家の近所に有る,動物園に居てどこの山にでも居る生き物も
スピードの変化で,自分の目で見つけ出せる様になる時に、

ようやく僕らは当たり前の感覚を取り戻す事が出来るように感じます。


しかし、この大きな空間より,大きな空間がそこには有り、
それ故に血で血を洗う様な生き様も有るんです。

僕らはこの大きくて小さな空間を、
本当にちゃんと比較する事が出来た上で認識しているのでしょうか?

本当に、「我々は島国である故に」と云う枕詞の意味合いを、
しっかり他国との関係において分かっているのかな〜〜〜〜
と、今日思いましたね。


ロンドンオリンピック本当の中身って、どんな事の堆積なんだろう。




2012年7月23日月曜日

認識する

「今おこった事は、もう過去だ。」


朝っぱらから、こんな事を話しだして,嫁さんは「?」と云う顔をしていた。

昨夜夜中にふと考えだしたら,目が冴えてどんどん思考し続けて得たワードは
「僕ら自体は過去の中に居る」といっていいのが現実なのではないか?
という疑問。

実際は今と云う「未来」と「過去」との間の「質感」つまりは「間」と云う「膜」に居るのだが、その膜はスポンジの様に時間が素通りしていて、今と云うもの自体は
「もう過去」になっている存在の上にしか乗っていない。


過去に左右されて未来を決めるには、
あまりに判断するにややこしくなって来ている最近。
我々50年少々の経験値の個が、上手い事やれるはずが無い気がする。
それも、しっかりとしたガイドが居た訳でもなく、
適当な感傷的な表現の中に育った僕らが、現実と向き合った次世代への答えを出し続けるには、ちょっと役不足。




そう思うと、小さな時間と小さな環境だけで、多いに交わる生き方を選択した方が
役割を認識出来る感覚は研ぎすまされる様な気がした。

日本人は村サイズが良いのではないかね。