2010年5月24日月曜日

夏用記録

糸島カレーフェスティバルに糸島わはは出店希望を伝える。
当然ながら薬膳。
苦いスープにならない様に注意。


サンセットライブに出店。
サチの揚げナン出品。
まんじゅう(糸島の味)等ここら辺でその時期に昔食べていたモノを紹介。
販売。売り上げを教えてくれた人たちに還元。後飲み代へ。

2010年5月15日土曜日

1+1=別物

1+1=別物
菩提が朝から母に怒られていた。
「だっこだっこ」としがみつくのはしょっちゅうだが、
今日のはほんの少し違ってた。
表情が、わざとだった。

赤ちゃんの様に口元を尖らせ、困ったような目をしてねだってた。
母はそのワザトらしさに苛立って叱っていた。

そのまま菩提は外に行き、
一人僕に聞こえてるとも知らずに毒ずいていた。

僕は、何か昨日とは違う息子の感情を感じた。
地球が一日と云う距離を進んだ結果が、時間を特定している事を
垣間見たような気がした。
その事自体が、僕自身も「時間」と云う「距離」の中に居る事を理解した。


空間認識

ホットケーキを食べながら、妻が席を立った時に、
菩提に小声で、秘密の話をするよな空気感で話しかけた。
内容は
「菩提・・・・朝からグネグネしてるけど、ママは菩提をレストランに連れて行く予定にしているよ。」息子の反応は、「えっ?」正にこの表情。
朝から母親の感情を逆撫でした事を理解しているからこその「えっ?」だった。
「グネグネしても、ママは菩提が大好きだからじゃないの」
彼は突然目の前の大きなホットケーキにフォークを刺して食べだした。
さっきまでは自分で食べるつもりの無い顔をしていたのに。


彼の四角いお皿には、二枚重ねで4等分したホットケーキの2枚が載ってる。
僕の丸い皿には、ホットケーキが3枚、
妻は四角いお皿に3枚。合計8枚。

僕の丸いお皿には、3枚がシロップを平均してかけたいので並べて置いてあり
妻と菩提はまだ重なった状態で皿に載っていた。

「ヒロは3枚、菩提は2枚、ママは・・・・」
すかさず息子は
「菩提の3」
「大正解!」
ここまではいつもの数遊び。

「でも見て菩提、ヒロのは3枚だけど、ママのは3枚で出来た大きな1だよ。」
「・・・・・・・・・」ちょっとシナプスの移動が彼の脳内で起きてる時の状態。

自分の食べかけたホットケーキを指差して
「ヒロ、パソコンみたいな形をしている」
そこに有ったのは、小さな長方形の形になった
一辺が3センチ位の食べかけのホットケーキ。

近くに有ったティッシュの箱をひっくり返し
「これも似てる形かな?」
「これは長方形、四角だよ菩提。」
そして菩提のお皿を指して、
「菩提のお皿は、正方形。」
おひつの蓋を見せながら
「これはマル、円」
そんな事を数回繰り返すうちに

「角」と云うものが、有るか無いかどうも要素だと云う事を彼は感づいた。

天井を指して「四角!」と云うので
「これは『角』」似てるね」


角と云うものに「意味(この場合は時間の経過した、木造の家の)」を持たせて行くと、高さや平面と云う全てが「意味」で構築された空間に変わっていった。
だとすると、そこに集合する意味を見計らっていく事で「方向性を持った空間」が構築できる事になる。
まさに、当たり前の事実でしかないのだけれど、
僕には「1+1=2」と云う当たり前の方程式が思い出される。

当たり前と云うのは
「1+1=1」当たり前と当たり前は、足しても当たり前。
「1+1=2」も当たり前と当たり前があっても当たり前が二つ
そう言う喩えだと今までは理解していた。
「1」と云う「要素」では無く「個体としての要素」ではなく要素を作る「要因」
「1+1=2」と云う定義を今日は少し違う感覚で感じた
それは
「1+1=別物」
「1」ではなく「2」だから
「要素、要因の2たつ集合」が記号「2」だとしても
そこには体積や質量がある訳なので、
目を閉じた世界だとしてもそれは変わらない。
つまり、「2」は別の意味を発生させた「要素、要因の2たつ集合」と考えた訳だ
同じ質量、体積だとしても、客観視した価値観から言えば
当たり前が二つになった所で同じ事。」となるけれど、その体積重量が以上に大きい場合はちょっと違った結果になる。
大きな意味合いの大きな要素の集合体が二つ合わさると単純に「2」では有るが「云うなれば複雑な『2』」とも言える。
この場合は
「(様々な1)+(様々な1)=(様々な1と1で出来上がった2)」が正解かな
それとも
「(様々な1)+(様々な1)=(様々な2)」と表記するだけで良いのかな。

ここに狩猟民族の1人称世界感とも相容れ合う感覚な「狩猟民の数学」を感じた。


今までの数学や物質の定義よりも、
何かと僕は狩猟民族的な方向から数学等を解釈した方が理解できる

何とも面白い朝だった

私と妻から子
私とあなたからは・・・・何が生まれるのでしょう。

2010年4月25日日曜日

九州に帰り着いたら

感覚が違う。

緑が年中有る。その事が戸惑いを生ませる。

そして、寒い。

北海道の「想定内寒さ」と違い、準備無しで寒さを体験してるよう。




これらが僕の中の時計をいじる事になっている様だ。



僕のこの肉体も、所詮物質。

そのまま進んでみよう、そう思う。


明日は「モリンガ植樹祭」

2010年4月16日金曜日

マカオ

6月に行く事決定。
ハワイから始まり、昨年はオーストラリア、そしてマカオ。
そのどれもが、経緯族的に行くことが可能なのがうれしい。


こんな人生が待っていたとは、若いうちにはわからないものだ。

2010年3月21日日曜日

吹雪だ!

今日でBar The ICEは閉店です。

ココ数週間、何気なくいつもそのタイミングを意識していたし、
それが僕のフィールド意識下では,一体どんな「信号を感じれば良いのだろうか。」と
実態有る時間を過ごせた要因はこの点だった、
この事を日に何度も考えていた。
仕事中、風景を見ながら、食事をしながら、ドライブしながら・・・・・・・
いつも僕に「この事を」考える事にさせてくれる。

それが、いつしか「テンポ」を僕の中に生み出していた事を、
今日の吹雪を見つめていて思い当った。

3月に入り、人の流れが変わり、不思議な空気感な日が入りだした事を覚えてる。
最初は「中国系な人達」と思うだけだった。
しかし、次の日も同じ空気感になり、
少しずつ少しずつドットを抜かれていく様に、満ちて質量も同じだけれど、何かが違う感覚。
春の力がこの山奥の場所に吹き込んでる。
目では見えない層(平面構成された状態のフィールド)と同じ様な物と言えば良いのだろうか
春の力はピンク



日本人は40年前に流行った生活の為に選んだ今までの流れ
その中には何が必要だったのかを、個人個人が持てた時点で、
経済的にも人間的にも、そして生き物としても、不必要にされる存在ではなくなると思う。
僕ら日本人の質感の大きな要素には、大いなる文化都市大陸中国が有ったからだと僕は思ってる。
僕らも独自の豊かな感性や流通を持った文化集落をその時点で完成させていたけれど、
多くの工作物に関して(食材や工芸、多岐に渡り)中国が先行していたのは事実。

多分一番最初の感覚は「感激」したんだと思う。
ゾクッと来る感激は、その事が解る意識が無ければ、共鳴出来ないわけだから
我々にもその事が評価出来る点も有ったと古代遺跡を見て思う。
だいたいにおいて、私を含めたシャモは(ココは北海道なので我々は後から入った者)
どこから何をしに来た人達なのかね。
どんな意味で?

2010年3月10日水曜日

何だか、気になる奴が居る。
そいつが問題を起こしたらしい。
「・・・・・・・・」と書くくらいしか思いつか無い心の「感覚。」


その瞬間、もう一人同じ様なフィールドに居る友人を思い出す。

そいつとこいつは、また有人同士だでもある。

『・・・・・・・・・」同じだけど、ちょっとリズムが違いが有るかな「?」の『?』

同じフィールドの対局に有る関係。
そのフィールドと僕との位置関係が、しっかりと僕の中で見えた。


僕と奴との関係、その関係を思い出し生まれる人間関係の図式。
そのタダの図式に、どんな感情が埋め込まれたイベントだったのかと「思いを馳せて」見るのかで、この図式の僕の心の中での位置が変わる。



どんな文章で表現したら、僕のこの瞬間感じた
「心と視覚と、皮膚の表面の感覚が感じられる」
対局化されてるが一つのフィールドにある事を認識出来てる事
オブジェとオブジェ
見えない立体と視覚化されてる立体との接点




               私 と あなた
                 対 局
               貴方の友人と貴方
                僕の周りと僕


      接点を面に変え、この事を違う意味に置き換え考査すると


               四つの面を持つ立体
            三角形の面で出来た正4面体



         一つずつの事柄を、一つの固まりで捕らえたら

                 • に •
                 に • に
                   •
                   で
                   • •
                   • •
             
             立体の図形から平面が生まれる


  面の発生時に、もう僕らの「心」を作るフォーマットが生まれたのかもしれない。


2010年3月5日金曜日

ようやく捉まえた


僕は自分の世界感が、多くの人達の住む世界感と噛んでいる事を感じだした。
今までの自分に感じれなかった感覚を、今年感じた。
多分昨年の全ての時間が、僕に経験させてくれた事から「生まれた」感覚だと思う。

僕は、人の側ではない事を改めて感じた。
僕は、自然の側から、人と接している事を。