この響きの懐かしさは、多分誰とも違った思い出を僕に思い出させる。
60年代の安保や民族闘争にエタ非人問題。
そのまっただ中に、僕ら家族は入っていた。
恵庭の我が家のお隣は、自衛隊の戦車部隊の演習地。
対戦車用のヘリコプターや超低速飛行のジェット戦闘機、それに機関銃に投下爆弾。
僕はこの音の中で10年を過ごした。
学校のクラスの子達の両親の7割近くが自衛隊関係だったのを思い出すが
この家に引っ越してから、僕らの家族の音の中には機関銃や大砲、
それに戦闘機の急降下の時の音やが満ち満ちた生活が始まった
ただし、僕らとは違い、彼らの生活環境に迄、
この音は届いていたかどうかは定かではないが
我が家のように、この音のまっただ中ではないことは事実だ。
その分戦争の戦いの意味も分かる。
そして無意味さも感じる。
300年前の蝦夷地に起きた戦も、
この環境が作ったステップだと思う。
そのステップをどう超えるかが、この300年をどう過ごしたかの答えだろう。
今年、父が依頼され造った像が40年ぶりに銅像化される。
この像を造ることから生まれた人生の変化はなかなか興味深いものだった。
僕が今この姿になったのも、この分岐が影響している事は確かだ。
そして、僕は、父の踏み残した道のりを、
少々次の人達に伝える為にも踏み進んでみようと思ってます。