2011年3月4日金曜日

脳の中での話を見れるか?

「脳の一部で○○についての反応を○○研究所が確認した」等のニュースを読むたびに、
「いまだにそんな事をやってるんだ」と思う事が有る。

この「いまだに」と云う「感覚」は一体何故に僕の中に生まれていたんだろう。
過去の整理された記憶の「以前」の記憶は、
多分僕の「感情」の「軸」とも「へた」ともとれる様な部分を創っていると思う
そんな事を考えてると
ふと思うのが身体の仕組みの事。
言語中枢と視覚領域と五感の感覚が合わさった時に
「一つの感覚を創る。」
しかし言語が無くとも「視覚」や「五感」等の複数の刺激が合わされば
それはそれなりの「一つの感覚を創る。」事になる。
だとしたら
「やり方は違って、同じ「一つの感覚を創る。」は創れるのか?」と思う。



脳の特定の部位の反応が何なのかと同時に
なぜそこに創られたのかも考えると、
僕の中の「未だに」と云う感覚が無くなる様な気がする。






僕らは足元なんか見なくても階段を上がれる。
歩く時に足元を見なくても歩ける。
目の情報と時間の感覚と物体認識。
それ以上に個人の中に様々な反応や操作で動いてる。
あげた足が上がりすぎない様にしたり、右左を交互に出したり、体重を移動させたりね。

「目はモノを見る為に有るんです」はもうちゃんとした意味を伝えない誤訳とも言える時代になって来ている。


もう一度、我々はここまでの「英知」を使って、
「他」との関係をリセットさせる考え方を探す時期に来ているんじゃない。

次のステージな気がする。

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