2010年8月17日火曜日

時代とは何が創るものなのか

人間が「時代」を作っている様な気がするが
それとは別に環境(天候、気温、水温等々)が
その枠として作用してる様な気がする。

その中での人の反応を半俯瞰、もしくは半客観程度で見て判断した様なものが
時代感の様に見える。

なぜ「半」を付けるかと云うと、
実際摂理等々の方程式が我々には理解出来ていないから。



ただ、どう考えても、
常に全てにおいて「より最高の」を求められている様に感じる。
「何」に・・・・・
全てにおいて。

それをクリアーしたものが、次なる「より最高」を求める環境に行ける。

それって、過酷な道の様にも見える。
その通りだと最近思う。
がしかし、
そこにとどまるは易しだが、どうにも満足がえられなくなる環境でも有る。
これは遺伝子に組み込まれたものだろう。
「より良い環境へ」と云う因子だ。
だから、居ていいけど居づらい。
そして、この因子のおかげで、次なる環境が来る事に快楽が有る。
が、それも満喫もしくはそのスペース一杯に自己が広がると・・・・

さて、
どこまでも続くであろうこの進行にはある方向性が含まれてる
その方向性は個人的な違いが有るが、
大きく俯瞰すれば「人間性」と云う幅ではほぼ同じ方向性を持っている。
まれに、人間としての肉体を使い楽しんでいる人々が居るが、
この人達はそう言う意味では次の「方向性因子」を自己管理出来ている状態
そう言えるのかもしれない。



言いたいのは、そのまま進行する事は、永遠の更新の行進。
つまりメビウスの輪
もしこの自己管理下に「方向性因子」を入れる事が出来たなら、
多分「時代」と言われている大きな流れに対して、違った感覚を持つ事も
参加する事も、休む事も出来る様な気がする。


「より最高なもの」と云う因子を捨てる事無く
そのスパイラルとでも言う様なスピード感を制御出来るなら、
それはスパイラルと言うような表現からはなれられる。



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