2011年8月30日火曜日

イチゴは夜大きくなるんだよ。と母が言った。

日中太陽の光線を浴びて光合成をして、根からも栄養分と水分とを吸い上げて
乾燥に耐えながら、そんなことして。

そしてその結果、夜の間に大きくなったり色ずいたりしてるらしい。

お日様の下で葉や茎なんかはどんどん大きく広がったりしてるのに。

実はちょっと違ったサイクルなんだ。


そんな事を、朝起きて、天井を見ながら今朝思い出した。


人類も日の光に象徴される「太陽暦を基準にした」的計り。
その計りだけでは、どうもミッシングリングを閉じる事が出来なかった結果になりそうな気がする。
分かったのは、誤差と思える様な小さな事も、
実は大切な要素であって、大ナタで切る様な考えたかでは答えが出ない様だ。
「太陽と月が有って、今の地球が有る」としたら
陰暦と言われるものとの関係も大切にすべきなのだろう。
親からの恩も、友人との縁も、今と言う瞬間にも意味が有る。
果てしなく無限に全ての方向との繋がりの中の「私」であろう。
ミリミリとしか進まなくても、そのミリミリが反対のモノを
大きく動かして行く事を知っておく事が、
一番肝心なのであろう。

故に、大きく緩やかに揺さぶる事が、大切なんだろうな。

優しさ、おおらかさ、許す事、認める事。
憎しみ、恐怖、怒り、蔑みも、同じく大きく揺さぶる力。

どちらも同じ領域の中に入っているオブジェであり、
この要素オブジェを理解し整理する事で、
様々な事がデザインが出来るんだろう。

しかし、これくらい究極なスタンスは、なかなか維持するに難しい。

維持しようも、必要ないのだから。

2011年8月19日金曜日

不思議

夜の暗闇で腕にとまった蚊は見えるのに、
モニターの文字が見えません。

新聞の文字も読めませんけど、
必死に読まなくてはならなくなった名刺のメールアドレスは見えました。

そんなもんなんでしょう。
肉体ってヤツはナマラちゃっかりしたヤツです。



そんな事に感心してると、ふと思うんですよね。
「自分自身を制御出来てるのか、出来ていないのか。」
「自己意識は何を持って基準を取っているのか。」


今日今年初めてのサーフィンしました。

海に入るまでドキドキしていたのが、
海に入った瞬間から「何も考えていない。」
ボダイが一緒にボードに乗りたいと言うので、
膝腰程度の高さの波の中、ボードに載せて海の中に。
いい具合の波に合わせて滑り出すボード。
「立って良いよ〜〜〜」と声をかけると、
じわじわと立つボダイ。

巧くなってもなれなくても、技術ではない何かを刻み込んでもらいたい。

それが僕の願い。

2011年8月18日木曜日

僕らは「選んで」いる。

今この瞬間は、「過去」に選んだ結果。

「・・・どうしよう・・・」と悩む瞬間が有ったとしても、
その結果は、また次の瞬間に結果として現れる。

だとしたら、

選んで来てるんだから、より多くの望みが入っていて、
それらが満足してゆく「選択」の方がより良い結果が待っている。

自分自身の為に自分自身が動く。

より多くの過去から育てて来た「理解」に、
より素敵な「認識」を。
それらが繋がり、脳内シナプスは活性化し、デザインされてゆく。



人生観をデザインする事は、いとも容易い。

2011年8月13日土曜日

少年達との夏

僕ら人類は、まだまだ少年なんだ。


夢や希望に満ちている。
恐怖やおののきに日々ドキドキしている。

今日はいい具合に月が出ていて、
ボダイとニイトと一緒に、肝試しに火山と云う山のてっぺんまでバイクで行った。
イノシシがでる山火山に、3人でバイクで登りながら、
ビビる二人と一緒に大声で歌を歌いながら。

頂上でエンジンを止め、ライトが消えた中から見る風景。

手を叩き大声で「俺は負けない!」を大声で叫びながら

そんな中で見る風景を、この人達に贈りたかった。

降りていく道で「弱い生き物を、それより強い生き物が食べるんだよ」と話す。

「負けてはいけない。」

そう、自分自身に負けてはいけない。

見えない空気に、負けないでもらいたい。

48歳からのそれが贈り物。

僕も、心でこのフレーズを、いつも叫んでいるんですよ。

2011年8月6日土曜日

そわそわする一日

晩ご飯を食べながら、薄曇りでちょっと蒸し暑く、
それでいて肌寒かった海の水を思い出し、
今日一日なんだか焦点が合わなかった事を妻に報告する。

一昨日家具屋の知りあいの所から持って来た、一人掛け用の無垢の椅子が3つ。
全く違ったコンセプトで作られて入るものの、素材が同じ。
高さも、素材の扱いも違い、高さや重さまで違う3つの椅子。

これらをうまい事連結させて、ソファーを作るのが今回のチャレンジ。

誰から頼まれた訳でもないこのミッションは、
僕が昨年閃いたミッション。
又おもちゃが生まれた様なものだが、クオリティーと言うものを作るには
こんな事も必要なんです。



っで、朝から向き合う気持ちは満パンなのに、気分が合わないんです。


で妻に話している時に、
今日が広島原爆投下の日である事を思い出す。
朝市役所の野外スピーカーで黙祷のアナウンスと、サイレン。
4歳の息子にこの日の話を、これをきっかけに話しだす。
「人間は力で勝ってもそれではいけない事を、この事から学んだんだよ。」と。
しかし、説明すればするほど、幼い子どもたちの喧嘩の方程式は
そのまま今の社会構造と同じ事を感じた。
人類は、過去をこうやって振り返る事も出来るが

黙祷し、それを我が身に移し込むには、
この数分の行為では意味が無いのかもしれない。


今日一日はやはりこの過去を思い出し、一日を生活する事が「最善」のような気がするが、そんな時間を持てる環境を、人々が作れるかどうかは分からないな。



2011年7月19日火曜日

チャクラの話

なかなかやるな。

まとまっている様な
まだまだの様な
息子は僕の鏡。





様々な事柄に反応する人の頭に、心。
よくよく自分の場合を観察すると、今までの経験が頭にあって、
身体にはその触感が有り反応が出る様になっている。
そしてその経験が、単純なカテゴリーに分けられていて
心拍数をどうにかする。
この心拍数をどうにかする作用(ホルモンバランスを変える作用かもしれない)や
脈拍数が変化する事から生まれるこれ又反応かもしれないが
これは生命に取っては大きなイベントであり、刺激である。
これが又脳に作用して「心」と言う様な部位を、身体に感じる。
胸の奥深くに、それを僕は感じるけど、
どうもそんな一連の流れが僕には起きている。

そして、その心のちょっとした位置関係で
「浮ついた」や「引けてる」「沈んでいる」「前向き」というような身体バランスにまで繋がる感覚になる。

そして、それは丹田と言われる部位にもあり、
問題を理解し、覚悟を決めると「肝が据わる」と言う様な感覚が理解出来る。

相手に自分の気持ちを伝える時でも、
伝わる様に「さしだす」気持ちもこの時分かる。
投げつけるのではなく、受け取りやすい様に伝える事に「さしだす」やり方。

これらが一連の流れになるとき、それは頭脳、のど、胸、腹、下っ腹の位置に何かが起きる

身体全体=頭脳(深くではない大きな分類として反応)=胸(頭脳の反応により反応)=頭脳(これらの事柄からの反応や対処を考える)=腹(動物としての進むか止まるの反応)=下っ腹(意識しないと反応だけ)
これをもっと繊細に見てゆくと
色々と順番を変える事も可能だし
その順位を変える事で結果も変わる。
そんな事をやってて、ふと思った
これはチャクラと言われているモノの事かもしれない。
ただし、チャクラの事を僕はちゃんと調べる事も、興味を無かったから
同じ物かどうかは知らないけどね。

でも、人生観が変わるほどの物ではない。
僕の自分の身体に持ってる感覚は、事故に有ったりして、内蔵をいじられたり、
骨を触られた感覚があるから認知出来るようになったモノで
健康な人には想像出来ないものだと思うから。

2011年7月13日水曜日

川で遊ぶ事は川が綺麗になると云う事

だって、川に又来るじゃないですか。
一度来て、ゴミを捨てて帰れるのは、いつも来ないからですよ。
いつも来るには、時間や面白い事が満載なら良いんですよ。
この車の荷台には、テーブルも、パラソルもつけれます。
一度乗った子どもたちは、必ず又乗りたくなるし、
一度運転した大人は、又運転したくなるんです。
その連鎖で、川が綺麗になるんです。
川の真ん中で、お茶しながら、その周りで子供が遊ぶ。
良いじゃないですか。
私たち人間らしい。
出来れば、ハイブリッドだと、もっといいんですけどね。

だれか、素敵なエンジン下さい。